2010/08
近代医学発展に寄与 佐藤泰然君川 治


 佐倉順天堂記念館はJR佐倉駅から歩いて10分ほどの旧成田街道沿いにある。昔ながらの門構えを入ると庭先には、佐藤泰然を始として順天堂の蘭学者たちの胸像が並んでいる。
 記念館は佐倉市の管理で、順天堂における授業・講義内容や塾生の生活、当時の治療費の説明などがあり、手術や治療に使われた器具も展示されている。治療費をみると眼病銀2百疋、整骨術金百疋、乳癌剔出方金千疋、手足截断方金三両、造鼻施術金十両など治療費が詳細に示されている。当時から美容整形があったのだろうかと驚かされた。この順天堂で学んだ多くの人が、日本の近代医学発展に寄与している。
 東京から総武本線に乗り約1時間で佐倉につく。佐倉は歴史のある城下町である。徳川家康が江戸に幕府を開設すると、腹心の大久保利勝が佐倉の地に築城し、関東の東の備えとした。利勝は幕府の大老の重責を担って活躍した重鎮である。その後も佐倉藩主は譜代大名の松平、戸田、稲葉などが幕府の要職を担う老中職として活躍しているが、幕末の堀田正睦は名君と謳われた人物である。
 1792年、佐倉藩堀田氏第6代藩主・堀田正順のときに佐倉学問所が設置されて、代々の藩主は学問を奨励した。9代藩主・堀田正睦は佐倉学問所を成徳書院と改称して、儒学中心の学問所に洋学を加えた。
 堀田正睦は藩内で洋学振興を図っていたが、佐藤泰然の評判を知り、佐倉藩へ招聘して順天堂を開設した。順天堂は病院としても蘭学塾としても当時の評判となり、洋学は西の長崎、東の佐倉と言われたそうだ。さらに順天堂は大阪の緒方洪庵の適塾や華岡青洲の春林軒と並び称される洋学所で、全国から多くの医学生が集まってきた。
 佐藤泰然は1804年に現在の川崎で生まれたが、医師になることを志して蘭方医・足立(あだち)長雋(ちょうしゅん)について学び、更に1835年から3年間、長崎に遊学してオランダ商館長ニーマンや、シーボルトの弟子で佐賀藩医の大石良英や楢林宗謙について学んだ。江戸に戻って外科専門の和田塾(母方の名前)を開設したが、優れた蘭方医の評判に患者が多く、更には蘭学を学ぼうと多くの塾生が集まってきた。
 足立長雋の弟子には他に、川本幸民、幕府御典医・林洞海などがいるが、佐藤泰然もまた、あまたの人材を送り出している。
 松本良順は佐藤泰然の次男である。順天堂で父の教育を受けた後、幕府侍医の松本家の養子となって長崎に遊学し、オランダ駐在医官ポンペに学んだ。長崎に西洋式の長崎養生所を設立したが、これが後の長崎医科大学である。松本良順は江戸に戻って幕府奥医師、西洋医学所頭取などを勤め、後に維新政府の軍医総監に就いている。
 山口舜海は下総小見川藩医・山口甫仙の子で、順天堂で蘭学を学び、長崎に遊学してポンペについて外科を中心に学んだ。優れた医師で、佐藤泰然の養子・佐藤尚中となって順天堂を継いだ。その後、東京に順天堂病院を開設した。この病院が発展して今日の順天堂大学となっている。
 佐藤進は常陸の酒造家の長男であったが、医学を志して順天堂に学び、佐藤尚中の養子となる。明治2年に政府第1号のパスポートでベルリン大学に留学し、医学博士号を取得して帰国、順天堂病院2代目院長、陸軍軍医総監などを歴任した。
 関寛斉は上総の出身で、順天堂で佐藤泰然の下で学び、長崎に遊学してポンペに西洋医学を直接学んでいる。その後、徳島藩の侍医、徳島医学校の設立と活躍した。
 林董は佐藤泰然の5男である。泰然が長崎遊学したとき一緒に学んだ親友の林洞海の養子となり、英国に留学したが、医学の道には進まず明治政府の外交官となり、外務大臣、逓信大臣を歴任している。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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